あれは2001年10月に入った頃。ポンデ雅夫たちがまだ箕面の住宅街を走り抜けていた頃のことです。約1ヶ月後に迫った大学祭のメインイベント、字幕を つけながら各国語で上演する「語劇(ごげき)」にイタリア語として参加エントリーし、すでに演目として内定していたのが、あのマキャヴェッリの喜劇『マン ドラーゴラ』。翻訳に苦労する後輩たちを見ながら、演出のポンデは言い知れぬ不安を覚え、台本があがってくる傍から読み合わせても、16世紀のイタリアの 笑いをどう演出していいやら、皆目見当がつかない…。もっと笑いやすい笑いはないのか? セットも変えるのが面倒だから、できればワン・シチュエーション の吉本新喜劇的なものが望ましい。公演名の提出日がジリジリと迫ってくる中、当時はまだ魔窟のような707号室=イタリア語共同研究室内を漁っていたポン デは、研究室の所蔵らしからぬ一冊を見つけます。タイトルは“Teatro Comico”、つまり『喜劇』。なんと安直な…。そしてこの力みのない表紙。何かしら嗅覚が働いたのでしょう。藁をもすがる思いで、猛然とページをめく るポンデ。焦りに焦っていたので、収録されている中編の戯曲を、それぞれさわりだけ齧ってみて、ダメそうなら他を当たろうという魂胆。どっこい、思惑が外 れました。面白いのです。しかも、どれも。はっきりとしたキャラクターたちに、大衆的だけど風刺のきいた普遍的な笑い。ひとたび幕が上がれば、休みなく畳 みかけるストーリーライン。問答無用に笑えて、イタリア人の感覚や価値観についてもうかがいしれる。これぞ求めていたものではないか。本を手にしてわずか 数時間後、すっかりフォーに魅了されたポンデは、「希望が見えたぞ、みんな仕事にとりかかれ」と語劇スタッフに檄と唾を飛ばし始めたのでありました。
上演年 | 上演場所 | 上演タイトル | 原題(いずれもDario Fo作) |
2001年 |
間谷祭 @大阪外国語大学 |
『泥棒もたまには役に立つ』 | Non tutti i ladri per nuocere |
2002年 |
間谷祭 @大阪外国語大学 |
『マルコルファ』 | La marcolfa |
2003年 |
間谷祭 @大阪外国語大学 |
『離婚の仕方、教えます』 | I cadaveri si spediscono e le donne si spogliano |
2004年 |
Teatruccio主催 (学外公演) @大阪・池田 アゼリアホール |
『おばあちゃまご懐妊』 『かけごとの法則』 |
La nonna incinta Un morto da vendere |
2005年 |
ODC主催公演 @京都市国際交流会館 |
『湯けむりエゴファイト』 | (原作:“Gli imbianchini non hanno ricordi”) |
1926年、ロンバルディーア州ヴァレーゼはサン・ジャーノに生まれる。幼少時代をマッジョーレ湖畔地域で過ごした後、美術に関心を持っていたフォーは1940年、ブレラ・アカデミーで学ぶためミラノへ。大学は建築科に入学するも、大学の友人であったフランコ・パレンティ(Franco Parenti)に誘われたのがきっかけで、フォーは大学を退学し、演劇活動を本格的に開始していくことになる。
1951年には、ラジオ番組の中でポエール・ナーノ(Poer Nano)というタイトルで何本かモノローグを書き出演するなどの活動を行っていた。そして1953-54年、フランコ・パレンティやドゥラーノ(Durano)らと共にミラノ・ピッコロ座で上演した『目に指を』(Il dito nell'occhio)で話題を集めることになる。54年には女優フランカ・ラーメ(Franca
Rame)と結婚。伝統的な大衆演劇の役者の家系を引く女優であるフランカ・ラーメは、フォーの演劇に大きな影響を与えている。
50年代は、演劇だけでなく、脚本家として映画にも携わった活動を行うが、1958年に、フォーとラーメは劇団を結成。このあと、本格的に演劇活動に入っていく。この時期に、フォーは比較的短い一幕物の喜劇を短期間で多く書いている。これらの喜劇は、イタリア喜劇の伝統的手法で書かれており、比較的政治色の弱い作品であると言えるだろう。本格的な戯曲制作を始めた当初のこの試みは、フォーにとって、喜劇の伝統的手法・枠組み・構造を噛み砕き、体得する機会となったのではないかと考えられる。また、これらの喜劇のいくつかは海外でも頻繁に翻訳上演されており、大阪外国語大学イタリア語劇、ODCでもこの時期の作品の上演を試みている。
それまではレビューの台本や一幕物の戯曲を書いていたが、1959年には、登場人物が多数登場する三幕物『天使たちはピンボールをしない』(Gli arcangeli non giocano al
flipper)を制作。これは官僚・警察・政治腐敗を皮肉った喜劇であり、彼が始めて取り組んだ大掛かりな舞台といえるだろう。その後も非常に政治色の強い諷刺劇を制作し続けていくが、60年代後半に入ると、このような諷刺劇を制作し続けるフォーに政治的圧力がかかり始める。フォーとラーメが一般の劇場での上演活動から、当時の共産党文化団体ARCIを通じた活動への変更を決断したのは、ちょうどその頃だった。これ以降の上演は、工場・広場・体育館などの場所で行われ、観客の層もこれまでの中流市民から下層の市民へと変わった。
この時期に生まれたのが、フォーの代表作である『ミステーロ・ブッフォ』(Mistero
Buffo)である。この作品は、遡ること中世のもの。道化たちが当時の演劇の主流であった聖史劇をパロディ化して行っていた物である。フォーはこの道化たちによるパロディーを再構成し、上演した。その上演は「解説→道化による聖史劇パロディー→解説→道化による聖史劇パロディー……」といったスタイルをとっている。そして、この解説の部分では、その喜劇の解説のみならず、現代のイタリア社会状況が引き寄せられて述べられ、舞台を通じてフォーは痛烈な体制批判を行った。
このように60年代から70年代前半にかけて、その政治色の強さは衰えることなく、諷刺はますます過激になっていった。そして、彼の過激な諷刺劇は校閲を受けるにとどまらず、フォー自身が逮捕されるという事態を引き起こした。また、フランカ・ラーメが性的暴行を受けるという事件も起こっており、彼の戯曲と彼らの演劇活動がいかに右側からの反感を受けていたかが、これらの事件から伺い知れる。
その後70年代中頃からの作品では、伝統的喜劇の手法に立ち返り、麻薬や性差別などの社会問題を扱った作品が主に書かれ、一時の過激さは弱まっていく。話題作の『ミステーロ・ブッフォ』、その過激な活動でその名を広めたフォーはその後も継続的に積極的な演劇活動を行い、翻訳上演も増えその名を世界中に広めている。
90年代には、民衆の視点から歴史を見直した作品である『ジョアン・パダンのアメリカ発見』(Johan Padan a la descoverta delle Americhe)や16世紀イタリア・パドヴァの劇作家であるルザンテ(Ruzzante)ことアンジェロ・ベオルコ(Angelo Beolco)の喜劇作品を読み直した『ダリオ・フォー、ルザンテを演じる』(Dario Fo recita
Ruzzante)などを行っている。
そして、97年には見事ノーベル文学賞を受賞した。
フォーの演劇の特徴、特異性はその類まれな身体性と舞台性である。そして彼の演劇活動のキーワードとなっているのが"民衆"である。連綿と受け継がれているイタリア演劇の伝統と、民衆文化・民衆の演劇を重視し、演劇性を最大限に生かした作品。彼の舞台は会場を笑いと情動の熱風で包み込み、観客たちを揺さぶる。
ダリオ・フォーはイタリアの歴史と、彼の生きた激動の時代、そして現代イタリアが生んだ、現代演劇を代表する一人だといえるだろう。
<文:ツイスティーけいこ>
=参考文献=
「ダリオ・フォーと現代イタリアの劇文学」、高田和文、1998, ユリイカ1月号(pp.262-269)
「民衆演劇への視角―ダリオ・フォーの『ミステーロ・ブッフォ』」、高田和文、1987、日伊文化研究25号(pp.41-58)
Invito alla lettura di Dario Fo, Andrea Bisicchia, 2003, Mursia
La storia di Dario Fo, Chiara Valentini, 1997, Feltrinelli